小澤敏也ナイトVOL.6タンバリン祭り 前置き
撮影 ほにゃ〜
皆様のおかげをもちまして、無事に「小澤敏也ナイトVOL.6タンバリン祭り」が、2015年9月3日(木)に満員御礼にて終了いたしました。
小澤は、生前に4回の「小澤敏也ナイト」と、2回の「ブラジルサーカス」を、オフィスジングルジムとして、自主公演をし、亡くなった後は、周りのもので力をあわせて2回の「小澤敏也ナイト」を行いました。
それは、生前、「自分がなくなっても、1年に1回くらいは、オラの事を思い出してもらいたいから、『小澤敏也ナイト』という名前は遺してほしい。」と、本人が希望した事から、告別式後に行う、一般的には、「小澤敏也を送る会」というのを、「小澤敏也ナイト パンデイロヲタタケバ」という形で、行いました。これについては、本HPにもたくさんの記録が遺されておりますので、ぜひご参照ください。
一方、「小澤敏也ナイトvol1 大人の城」は系列店cco、「vol.2 ブラジルの城」「vol.3 生誕祭り」の他、440のお子様対象企画に4回(楽団「ぺとら」)、そして、フォルクローレ、ピカイア祭りなど、小澤が参加するグループ等でも、度々出演し、特に、人数の多いパンデイロバツカーダチームジングルジムにとっては、ホームのような存在の440の方から、
「小澤さんの追悼ライブをぜひ、440でやりませんか?」
というお声がけを亡くなった直後からいただいていました。それが、2年かかって、やっと実現できました。
コンテンツに関しては、
小澤から生前に、「タンバリン祭り」という指示があったので、それについて、まずは知るところからはじめようと思ったのですが、小澤は、こどもの城などの児童むけの活動では、一貫して、パンデイロの事を「タンバリン」と言っていました。こどもたちにとって、身近な存在である筈のタンバリンが、違う名前で呼ばれる事への不安を懸念して、「タンバリンと一緒に遊びましょう」というコーナーは、多くの被災地でも、一日に何回も行うキャラバンの一貫として行われました。
多くのこどもの現場では、「タンバリン」は、時には、花形の鍵盤ハーモニカなどができない児童の「やむをえない選択」だったり、大人でも謙遜のつもりで、「俺は、タンバリン程度しかできない」と、言われる事を、小澤はどうにか方向性を変えたいといつも思っていました。また、演奏の時に、指導する先生に、こどもたちが、指穴に指を入れる事を強要されて、長時間、鼓笛の練習をするシーンなどがあることを聞くと、指穴にこだわらず、自然にグリップされることが許されるような、楽器を嫌いにならないような手だてはないものかと、現場に出ると討議を重ねていました。後で、写真でご紹介する、タンバリン、レク、パンデイロが縦や横というポジションであるとデフォルメされて、こどもや高齢者、タンバンリンについて、多くを知らない一般の方がみても、それをきっかけに「持ち方ってこんなに自由なんだ」と、気づくきっかけになれば良いな、という件があります。小澤とこどもの現場や被災地巡りを共にしていない方にとっては、これは奇異にうつる事だったのかもしれませんが、故人を偲ぶという事で、お許しいただければと思っています。
タンバリン祭りの最初の演目は、「ぺとらのタンバリン祭り」としています。
これは、主催の私の力量では、やはり「タンバリン全体」のお祭りという事は、荷が重く、
もし、皆様のお力で、それを目指したところで、それでも、「この地方がとりあげられていない」等、時間や場所、名称について、博物学的に行う事は、もともと目指さずに、
楽団「ぺとら」として、今まで行っていた創作作品の一貫として、
ひとつのコンテンツとして、タンバリンをテーマに作らせていただきました。
今の日本において、タンバリンをテーマにするならば、この人をおいて作品をつくる事はできないと思い、奈良からタンバリン博士田島隆さんをタンバリン祭りを含め、三日間連続の企画を持って、お招きする事とし、ぺとらのメンバー立岩潤三(アラブパーカッション)とともに、監修というお立場もお願いして、楽器の大きさなどのデータももらいつつ、作品づくりを進めていきました。
ここで言う作品とは、
楽曲、衣装、大道具、小道具を含め、全てを手づくりするオリジナル作品という事です。
かつて、小澤が在籍していた頃には、小澤が、売っていないもの、この世に存在していないものを、このステージでは、「絶対に必要」と言って、つくりものをしていましたが、今回は、それぞれのメンバーがアイディアを持ち寄りつつ、製作は、オリジナル楽器も含めて、私がつくりました。
いろんな国のタンバリンが出てくるのだから、
いろんな国のそのものの曲をそこで演奏した方が良い。
こんな意見も、もちろん想定しています。
でも、「ぺとら」がやる世界観の中で、「ぺとらのタンバリン祭り」を作ってしまいました。
ぺとらの世界観は、こどものごっこ遊びでいう「うそこ」の世界です。
現実ではないけれど、空想の翼を広げる事で、タンバリンをより身近に感じられるようなデフォルメをほどこしています。もちろん、単純に、普通に紹介して欲しい方もいらっしゃると思うので、そこはぜひ、
田島隆さんの「タンバリン教」にて、いろんな本物のタンバリンについて、知識を広げたり、確認されたりしてくださいませ。
小澤は、全国各地のライブハウスにお世話になっていましたが、時には、ライブハウスではない普通のスペースで、演奏する時もありました。そんなときに、一番、気にしていたのが、ジャスラックの問題です。場所に著作権料をお支払いさせるご負担がないように、
楽団「ぺとら」には、公民館、児童館、どんな場所でも安心して、演奏を依頼していただけるように、自分たちの作品、もしくは、トラッドに限る。無断借用になる恐れのある、外国のカバー曲も、やらないと、小澤に約束をしていました。
「オリジナルの良いところは、何をつくっても、あぁ、その人の個性だなぁ〜、と思えるカラーがあること」と、小澤は言っていました。
せっかくの遺言で、「ぺとらのタンバリン祭り」をやらせていただくので、
オリジナルな部分も、こだわってみようと思いました。
タンバリンがお好きな方々には、それぞれの心の中に、
「マイ タンバリン祭り」があると思います。
これは、私たち、小澤敏也が遺した「ぺとらのタンバリン祭り」のご報告です。
「俺が死んだら、パンデイロ業界、ブラジル業界に、無知なまりちゃんが無理して足をつっこむな。まずは、フレームドラムを習え。それが、タンバリン族のはじまりだ。そして、タンバリンの友達をたくさんつくれ。そしたら、自然と「タンバリン祭り」につながるから。」
そういいつ、
コルテオの葬送行列には、「花のついた帽子で、女の人はロングスカートをはいて」など、
細かいところまで、イメージが膨らんでいたようです。
「タンバリン祭り」が終わって、私が最初に思った事は、
休憩中の、アラブレクやフレームドラム奏者と嬉しそうに談笑するパンデイロチームをみて、
「タンバリンの友達を増やせ」というのは、私に言ったんじゃなくて、
小澤が、この光景を観たかったのだと思いました。
写真 徳田彬生(アラブ音楽ポータルサイト管理人)柳元武司(ジングルジム)、
大石竜輔(レク)、久田祐三(フレームドラム、工房音鼓知振) 撮影ほにゃ〜