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良いリズムとはどこにあるのか #004

視点の融通

ロールシャッハテストというものがあるけれど、インクのシミのような絵を見て、それが何に見えるか。インクの黒い側で見れば人の顔に見えたり、白い側から見ると違うものに見えたり...錯視、錯覚、だまし絵...見えてきた瞬間、あぁなるほどね、見えた見えた、というようなことを誰もが体験するのではなかろうか。

見えてなかったものが見えるようになる

聞こえなかったものが聞こえるようになる(おばけとかじゃなく)

捉えられなかったものを捉えられるようになる

誰しも、勉強であるとか、技能的な手作業であるとか、失敗から成功、繰り返すうちにさらに開けてくる、などの体験はあるのではないかと思う。わかってきた、というもの。そういうことの経験値は、良いリズム探しの旅において意味があるのかどうか。

〇〇ができるようになって、演奏がうまくなる

〇〇に慣れて演奏がうまくなる

という語法はよく使われるが、実際にそうなのか。そしてそれは能力が足されたのか、余計な回路が無くなって必要な回路がフォーカスされたということなのか、ただ純粋に好きで好きで自分の中の扉を開いて脳内が書き換わるというようなことなのか。

アフリカン・ポリ・リズムというものがあって、我々ドラマーは、大なり小なりこれの恩恵を受けている。自分もドラムを初めてすぐに、先人ドラマー達が、結局アフリカだよね、なんて言っていたのを耳にしたり、誌面で読んだりもしていた。いやまぁそれでなくとも、当時からして黒人のドラムとか聴くとなんか全然違うわ〜と思うわけで、どちらが元祖かと言われれば...いわずもがなのことであり。

アフリカや黒人の歴史についてはここでは割愛するとして、たとえば2と3のポリリズムというのは、2を基準にするか、3を基準にするかという、最初はややこしいものごとが自由度になっていく過程を体験することができる。あるひとつのテンポの中で、1,2,1,2と繰り返すその時間軸の中で、1,2,3,1,2,3,と1.5倍の速度で進むものが同居する。これは結果的には4分音符と2拍3連の関係でもあるけれど、慣れて来ると、2の側の1からのスタート、2からのスタート、3の側の1,2,3それぞれからのスタートとして捉えることができるようになってくる。2と3という「対」になっている音符の組み合わせは同じパターンのまま、カウントの起点を変えるだけでも、なにやらビートの感じ方は変わってくる。

こんなことできなくても別に良いのだろうし、基準をずらしてはいかんという人もいるかもしれないが、ある意味、耳の運動神経というか、動体視力ならぬ聴力と解釈の幅の変化を感じずにはいられない。ポリを頭が受け入れるようになると、リズムに対する知覚の融通や、2も3も満足できるテンポの正確性みたいなものが得られると、個人的には体験を通して感じている。また、演奏をしていると、ゲシュタルト崩壊して自分の音が自分でわからなくなって、オモテがウラになったりウラがオモテになったりすることがある。それを有る意味意図的に行って、しかもパニックにならずにアタマもウラも自在に取れる、というような。いや、こんなこと大げさに書いているけれど、2022年現在、もはやハイパードラマー達の演奏は2と3のポリどころか、恐ろしいほどのテクニカルなドラミングを展開しているんだけども。

一般的に、ドラムのトレーニングというと、パワーとスピードを身につけるためのフィジカルなものは当然多くなるが、ある程度の習得を通り越した後、世界中の超絶難解ドラミングを行うドラマー達には、すべては脳の命令の問題であると言う人も多い。武道的なものでいえば、型を覚えることから始めるとか、肉体のトレーニングを通して、脳からの命令の出し方を覚える、それはある意味、スティックの持ち方、ドラムセットのセッティング、フットペダルの性能など、さまざまな改良の余地がある時代には、ある意味人海戦術で実践して試していくしかないわけだが、ドラムセットも誕生して100年を越え、様々なメソッドやエヴァンジェリストやエデュケーターが増えてきて、しかも昨今はネット上の動画によって「誰かが試したベストな方法」を最初からメソッドとして手にすることができる(注※1)

もちろん見ただけでは手足は動いてくれないので、結局は自分の身体が動くようにならなければ仕方ないとは言え、可能性の薄い作業を省略することで、ある種の効率化もできれば、ある意味ではその個人の限界点も見えやすいのかもしれない。そして、あとはその個人それぞれの制約限界の中で、どこを伸ばしていくか、どこで勝負するかというものを決めていくこともできるだろうし、より一層、音楽的なアイデアや手足の操り方という脳のトレーニングに集約できるとも思える。

手足の動きのトレーニングをまったくしなくても、脳の命令だけで演奏をできる日は、案外遠くない気がしている。打ち込み、リズムマシン、ループサンプラー、そうしたものはスティックとペダルからは解放されたとしても、今ではまだ最低限、キーやボタンやパッドを操作はしなくてはいけない。しかしこれも、目線でコントロールとか、言語解釈からのコマンドっていうもので、いくらでも出来得る可能性はある。需要は低いかもしれないが、それほどハードルは高くないのでは。

あとは、脳が「音楽として演奏すべき内容」を知っているかどうか、イメージしているかどうか。既存の音楽のスタイルであろうがなかろうが、アレンジやイメージの発露があるかどうか。ある意味では、一瞬聞いたらすぐに演奏できる、みたいなことを、肉体の鍛錬なしにできるようになるのかもしれない。(ちなみにそういう人もいるので、鍛錬が必要な時点で下手の横好きなのかもなぁと思うことはしばしばだが、これはあくまで個人的なボヤキとして)。

かつてスティーヴ・ガッドのようなテクニカルな革新者、打ち込みやリズムマシンが登場したとき「機械のビートじゃダメだ」「スイングしてない!」「テクニックよりハートだろ」なんていう人もたくさんいたように思う。しかし今じゃ(マシンの性能が上がったのはもちろんだけれど)、ドラマーはみんなクリックに合わせて練習をして、正確であろうとし、整った演奏基礎によって構築される素晴らしい表現の世界もある。

自分で書きながら、脳の命令だけじゃつまんねぇ、生の楽器だからいいって言う人もいるだろうし、自分もそう感じる部分はあるのだが、では実際、生の楽器で、その瞬間に人間同士が同じ場所にいることで、言語を越えた生物の本能的な潜在意識の交流や、物理的な楽器がその場所で空気を振動させることの意味というのは、鑑賞の視点ではなく、演奏面で「良いリズム探し」にどう関わるのかと。それだからこそできたこと、それでなければできないこと、それがなきゃやっても意味のないこと、そんなことはどこまで実在するのか。もしくは、実は道具を借りてその想いだけがあれば、人間の状態の変化によってそれが起こりうるのか。

良いリズムとは、人間の能力か、それとも状態か、はたまた演出のための狡猾さか。

そして、楽器と空気振動という意味では、ベストな発音方法と演奏行為による高揚感は、実際音楽の良し悪しにどれくらい決定権があるのか。言い換えれば、現代の人間は、どの形態でできた音楽を「良い」と思うのか。

結局のところ、仮説を立てるだけ立てて、消去法にもならないためにテーブルの上はごちゃごちゃなのだが、そうすることで結果的にはスッキリした気持ちで、考えるより耳を使おう、というスイッチになって、素直な気持ちでドラムセットに向かえるならば、それもまたアリだなと思う。そのためにやっているのかもしれない。

お読みいただいた方、本当にありがとうございます。

注※1 )そうして手早く手に入れた奏法が、実際の音楽の中で役に立つのか、もっとじっくり繰り返して身体に覚えさせないと...というのは個人的にも非常に思うところではあるが、そもそもできてしまう人、といいうのがいるのも事実で、おそらくは身につける順番として、ある程度進んでから、また基礎に戻ってじっくり磨く時期がくるという考え方もあって良いと思う。現実に大なり小なり、そういうことの繰り返しであるとは思う。


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