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良いリズムとはどこにあるか #005

あくまで戯言草稿。

3拍子であるとか、3連符であるとか。

自分は幼少期に家族親族の影響でクラシックを耳にすることも少なくなかったように思う。祖母がピアニスト、会ったことのない祖父がクラリネットをやっていた。姉の練習するピアノを耳にしながら、自分は習い事と言ってもそろばんを途中で放り出すようなもので、テレビやラジオで歌謡曲、少し大きくなるとラジオでFENを聴くようになり、American Top40の順位を毎週メモするという、なんの役に立つのかわからないことをするくらいには暇だったようだ。当時のランキングを見てみたりすると、ロック、R&B、ソウル、ディスコ、ポップス...ジャンルとか言えないようなものも含め、数々の名曲が登場している。

何の話かと言えば、90年代以降、割とごく最近まで、3拍子とか、3連系のアレンジってのはなぜか少なかったように感じる。流行りのドラム的に言うと、ドラムを始めようとする人が最初に買うのがツインペダルだったりする時代が到来し、テンポのバカ速いストレートなドラミングの隆盛というのもあったとは思う。

ドラマーにとって、手順というのはとても大事かつ厄介なものでもあり、右手左手を使って交互に叩くオルタネート手順というものでは、ヤキニクヤキニクと2の倍数の数の音符を叩くには良いのだが、ハラミハラミと3の倍数で叩くときに、最初のハラミは右左右、次のハラミは左右左、のように単語の区切り毎に手順が変わることになる。ゆっくりやっていればそれほどでもないが、いわゆる一般的に「ノレる」テンポの中で、6連符などを叩こうものなら、そしてそれを拍の裏からとか、9連符で叩こうとすると、いわゆる「呂律が回らない」ような状況で手順がこんがらがったりすることがある。

そして、8分音符や16分音符のフレーズの流れの中に3連符などをいれると、ちょっとギアを入れ替えてシフトダウンしたような、エンジンブレーキがかかるような、もしくは馬力を出すような効果を感じる(感じさせる)こともある。最近はもはや変拍子でも構わず踊っちまうところもあるので、3連符くらいでビートを見失うひともいないかもしれないが、昔だったら「なんだノリが違うじゃねぇか、なんか調子狂っちゃうなぁ」なんて言われかねない、そんなある意味劇的な変化にも応用できるのが3連符ではあったりする。(あくまでそういう面もあるということで、3連符は実に奥が深い。3拍子についてはまた違った意味合いがあるけどここでは割愛)。

そんなわけで、結構玄人アレンジでもない限り、一般の人にスムースに聴いてもらう楽曲の中で、3連符が登場しないことは不思議ではなかった、みたいな事を言いたいのだが、自分がラジオで音楽を聞いていた頃は、3連系の曲もいろいろあった。シャッフルのような跳ねるものという意味でも、ジャズのスイングフィールとか、ロッケンロールやブギとか言ったものも、なんか跳ねてるニュアンスを感じて、ただ平坦に叩くのとは違っていたり。

ロックドラム創世記のドラマー達は、おそらく幼少期にクラシックやオペラやジャズを耳にしている。そしてボンゾ様とかベイカー様とかペイス様とか、みんな普通に3連符や6連符を要所要所にねじ込んだフレージングを展開する。その人にインストールされている音楽はどんなものか、その順番は...というのはよく考える。素晴らしいドラミングをする人がいて、惚れ込んじゃったら、どんなバックボーンなのかなぁって知りたくなるっていう程度のことではあるけれど。

それは、ドラマーの演奏にどれほど影響を与えるのかはわからないのと、大抵の場合幼少期に聴く音楽を本人がコントロールすることは難しい。自分は30年程度、毎年目の前に現れる17〜18歳のドラマー達と過ごすということをしてきたけれど、ゲーム、バンドブーム、メタル、アニメ、ボカロ...幼少期に聴いてきたであろう音楽の変遷と、彼らから出てくるドラミングやフレーズのニュアンスというものには、なにかしら特徴的な違いがあるようでもあるし、無いような気もする。正確に言うと、あるような気はするけれども、あると決めつけると、世代や属性や、自分でコントロールできないことを話されても、みたいな感覚もあろうかとは思うので、まぁその程度でもあり、実際のところ、後天的に自分で選択してインストールしていく音楽の方が、影響度は大きいのかもしれず、ミュージシャンという立場でいえば、新しい音楽を作っていくわけで、バックボーンからは完全に卒業しても一向にかまわないので、あくまで、子供の頃にはだしで遊んでたので、今でもはだしが好きで〜すくらいのノリがよろしいような(泥沼)。

自分が覚えてる昔のドラえもんの曲は、シャッフルっぽい3連系のアレンジだった。泳げたいやきくんとか歌いながら叩くとラクになれるなんてのもちょっとしたライフハックだったとも言える。大人になってサザエさんを見ていたら、タラちゃんが出てきている裏でかかってる曲が5拍子であることに気がついて驚いたことがある。前回だかその前に書いた、言葉というか言語によるリズム感の体得、幼少期に聴いた音楽、生活の中にある文化で、我々の習慣の多くは構築されていく。ドラムなんてやったことが無い!と言いながら、初めて握るスティックを器用に振る人もいるし、リズムパターンは叩け無いけど、バスドラムのペダルは猛スピードで5連打できる体育会系上がりの人とか、別のところで、ドラムに役立つものを見に付けてしまっている場合、なかなかにアドバンテージは高いと感じることは多い。これは勉強とか、字を書くとか、家族との会話でできた話法とか話術とか、めんどくさいことでもキチンとやれるとか、朝起きれないとか、そういうのも関係するのかもしれないし、全然関係ないかもしれない。

3連符というもののフィーリングを知っているかどうか、そのフレーズの言い回しに慣れているかどうか。ただ、4拍子で、8分音符や16音符ながらも3で進行するというリズムは実に多い。もちろん本来の3拍子とか3連符とは違うものだけれど、それをリズムの構造として見いだして取り出して、演奏の展開に使う、ということを自然に覚える人もいるだろう。

ま、なにが言いたいかと言えば、我々は聴くともなしに2も3も聴いており、感じている。そして5も7も、小数点以下なものも、割り切れないものも、複合的なものも混合的なものも、シリアルもパラレルも、平面も立体もレイヤーも、きっと身体の中にあって、音楽のインストールもさることながら、普段目にしている自然物や人工物の構造、デザイン、レイアウト、色合い、グラデーション、変化、固着...何を聴いたか何を見たかも大事だろうし、そこからどう聴いてどう見たのか、中身を分析して構造や順序を理解して設計図を頭に描いたかどうか、全体を漠然と見て真理を感じるか、そんなところから、その人のリズムの在り方は決まっていくのかもしれない。

そしてそれらは、後天的に自分で変えることもできる、それを以て学習というのではないかとは思う。ともすれば、先述した属性云々も、これもまた自分で変える、というか利用できるのではないか。その成功例がステキな個性なのかなとは思いたい。ステキな個性になるためには、やはり凸凹をどう使うかという考察と閃き、時して先人の参考例が必要ではあろう。

リズムもまた、完璧でなくとも、その不足欠点のような凸凹や特徴が、実は心地よさの源泉だったり、アンサンブルになると唯一無二になったり。育む、というのもまたそこに見えてくる気もする。演奏ってのはシビアな面も多いけど、音楽が広くこの世の存在そのものの投影である限り、そこに見いだせる気付きは無限なのだろうなぁ。

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