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良いリズムとはどこにあるか #007

音楽に正確とか正確さは必要かという話。最初に言うと、まさに戯言です。散歩しながら道に迷うがごとく。

ドラムやってると、in Tempo(テンポが一定)な曲を演奏することが多くて、しかもクリック(メトロノーム)ももはや常識化しているので、正確という言葉が、一定であるとか、揃っている、同じクオリティでの再現性が高い、みたいな意味で使われることが多いように思うのだけれど。

正確な演奏っていう言葉を、誰か使ってるかと言えば、使ってないかもしれない。しかし正確にという指示や、正確でない、という批評は在るように思う。

正確=「正しく」「確かな」演奏ということであれば、これはもう普通に考えて本当に素晴らしいことではありましょう。それがどんなものであるかの定義は無くとも、そう感じる演奏は体験があるし、真っ直ぐな直線を見たときの「おお〜まっすぐだぁ」という、理由なき感嘆もまた自然な人間の衝動であるかもしれませぬ。俺だけ?

我々が「正確」という言葉をつかうとき、どんな意味合いで使ったり感じているか。テキトー→適して当たっている、いい加減→良い加減と、まぁいろいろニュアンスの変遷みたいなものも感じます。

音楽を聴いて、そして演奏するときに「正確に」と表現するとき、おそらくは音程を間違えないこと、テンポがズレないこと、ダイナミクスや音色がその都度に変わってしまわないこと...誤差を感じさせないこと、のような意味合いでしょうか。

音楽的に!気持ちよく!かっこよくやっちゃって!みたいな言葉が、相手の理解を促す場合もありますが、やはりちょっと大雑把というか、丸投げかよと思う時もあったり(実はそれこそがプロフェッショナルを呼ぶ理由だったりもしますが)、具体的な指示が必要なときと、考えすぎから解放するための言葉の使い分けといいますか。

主語のない言葉が独り歩きして、なにかしら演奏の一部を評した言葉がその後脅迫観念となって脳内でハウリングして、正確に、厳密に、ミス無く、すぐ間違える、自分は下手だ、またやってしまうかもしれない、ああああああ〜となっていくトリガー的なものになってしまう面もあるかもしれません。我々はかくも否定的、批判的な言葉に弱いのか、はたまた、そもそも音楽を表すのに使うべき言葉や用法が違うのか。

漫画なんかを読んでいると、人間は普通こんな顔してないだろ、と思うような絵だったりするものがあっても、ストーリーが面白ければ別にその描写が実在の造形に対して正確であるかはどうでもよかったりします。その一方で、ちょっと世代的にアレかもしれませんが、大友克洋さんのような描写もまた、背景とかすんごい細かく描かれていて、その絵が無駄な描写だなどとは誰も思いますまい。抽象か、写実か、どちらも表現として素晴らしければオッケーではあり。

さて、音楽において「正確」と感じるものの正体と、それが担保する音楽のクオリティとは何かと。いや、そんな大げさなことでもないか。

1)正確であること(結果論)
2)正確であろうとすること(目標や目安)
3)正確でなければいけない(ノルマ)

正確という言葉が、どう使われるか。正確に越したことはない、正確だと安心する、正確だと後の修正が不要、正確だと何かと通りやすい、正確だとつまらない、正確なだけ、正確にしようとしすぎてそこばかりに偏っている、正確さを盾に威圧やハラスメントすら感じる...。

ダーツの矢を投げて、ど真ん中に当たったとき、遠くのゴミ箱に投げて入ったとき...なんとなく嬉しいもんだったりするが、外したからといって生死に関わることでもない。ドラムを演奏していて、ミスをしても気にならないときもあれば、この世の終わりのように感じることもある。正確というものは、演奏の自由を奪う「制約」や「悪しき規律」なのか、奏法の基礎を固めるものなのか、アンサンブルにおいて「個々の演奏の守り自由度を増やす」マナーやルールなのか。

普段、音楽を聞いていて、あからさまな演奏のミスがあったり、リズムが崩れたり止まってしまったら、少なからず心地良さには浸ってはいられなくなるでしょう。聞いている人、もしくはメロディを演奏する人にとって、伴奏のリズムがギクシャクしていたら、それはあまり好ましいことではない。

しかし演奏する側になると、単純な4分音符のくり返しであっても、意識とは別にテンポが崩れてしまったり、望んでもいないリズムのヨレが生まれてしまったり。今も昔も、テンポキープ、タイムキープというのはドラマーにとっての大切なポイントのひとつではある。これは楽器の演奏が難しいものであり、自分の肉体を駆使することの難しさ、箸の持ち方や鉛筆の使い方などのような、身体で覚える技能の問題が大きいとは思われる。頭ではわかっているけど、身体が動かない的な。

演奏する側になると、正確さというのは、ある意味自主的に生まれてくるハードルのようなところがあるのかもしれない。

もちろん演奏する音楽や、その人の性格などにもよるでしょうけれど。正確で正角で精確で正格な性格。日本語難しい。聞き手になると、音楽の心地良さや、神がかった演奏にエキサイトするものだが、いざ自分が演奏するとなるとズレたりしてしまうのは、一体なぜなのだろうか。

いつも自分でも不思議なのは、聞いてても乗っていても、リズムは安定している方が気持ち良いのに、なぜ叩くときは気持ち良くなるというより、なにか必死にクリックに合わせようとか、ミスがないように、とか考えてしまうときがあるのか。そうして緊張して、演奏が終わるとぐったり疲れたりしつつも、なにかしら達成感なんてものを感じて、自分はやり遂げた!みたいに思えるところもまた、人間とはなんでも糧にするタフさが在るというべきか。

ところで、正確という言葉を使っても、その計測単位を細かくしていけば、真に同じ長さ、真に同じ音、なんていうものは存在するのかわからない。一体正確という言葉は、どんなときに感じるのか。その人間が感知できない領域に入り込んだときに、人は何かしら感慨を持つのだろうか。

ここで、「正確」というものはなく、「正確さ」というものは在る、みたいな話にするのは本意とずれていくのであろうか。ドラムの練習に、ひとつ打ち、という基礎練習的なものがあって(基礎練習として取り上げられることが多いが、おそらくは一生追求できることでもあり)、片手だったり両手交互だった両手同時だったりと、一定の音符を1打ずつ叩くことを、叩く動作を身体に覚えさせたり、ウォームアップやコンディションチェックに利用することがある。なんなら手拍子でもよいし、口でリズムを歌うのでも良い。録音して聞いてみると、全然一定でなかったりすることは珍しくない。

中学校高校と吹奏楽部でやってきたような人でも、どこまで正確かというと、これがメトロノームを聞いていればみんな合う、というほど簡単ではなかったりする。実際に録音してみると、本人が驚くケースも少なくない。誤解なきよういっておくと、これは音楽や演奏の本質ではない。が、すべて無視できるというほどどうでも良い話でも無く。

科学的には正確に叩くことはありえなくとも、正確に感じさせることはできる、というか。少しズレていても気にならない演奏と、ちょっとズレただけで気になってしまうものと。それはある意味、音の紡ぎ方やアンサンブルの在り方に意味があれば気にならず、イレギュラーを感じてしまうものは正確と感じさせない、という面もあるでしょう。

一体、演奏しているときの気持ちと、実際の音のズレとはなにか。

1)目隠しをして福笑いをするようなもの
演奏している最中はイメージ通りやっているが、録音してみると違っている。手の感覚だけで演奏できるほどには熟練していない。

2)しっかり目で見ながら書いているのにうまくかけていない
自分の音もモニターしながら演奏しているが、間違えてしまった。なにかしらのミス。演奏しながら気づく場合と、演奏中にあまり気づいてないケースも有り得る。

3)自意識により緊張して通常できることができなくなる
ミスしないように、うまく演奏できるだろうか、と考えすぎて緊張してしまう。ともすれば演奏から逃げ出したいくらいの心理状態になることも。

4)そもそも最初からズレているが、出来ている気になっている
得意満面で演奏しているが、どんどんズレていったり。小節数のカウントなどでも、32小節と信じて次に進んだが、実はまだ16小節だった...みたいなミスも類似なのかどうか。

5)主体であることにだけ集中しており、成果物である音は見えていない
赤ちゃんが見様見真似であれこれやるけど、その後はごちゃごちゃに...みたいなこと?

だいぶめんどくさくなってきました。誰も得をしない感じです。

ドラムにおける正確さというのは、ある意味では打ち込みというものが登場して解決したようなところもありました。リズムマシンでもシーケンサーでも、今ならDAWが、いつでも何回でも同じ音を出してしてくれます。しかし細部に気を使えば、電源の周波数や容量、その時の気温や湿度、そして言い出せばきりがない人間の感じ方...。そして今では、わざとズラして演奏して「カッコいい」とすらなっている。でもそのズレも、ただズレててもダメなわけで、ある意味、「意図」に対して正確なズレ(その意味ではズレていない)であると言えるでしょう。

意図。意図、目的、目論見...。人が見ている、仕事で対価が発生している、カッコ悪く思われたくない...そこに事情や欲望、自意識が絡む。純粋に良い音楽にしたいと思ったとしても、誰かのように演奏したい、スターになりたい、なんにしろそこに意図(目的がないという意図も含め)というものがあって。仮に演奏はグダグダでも、コミュニケーションがうまくいってその場が楽しければ、意図は達成されるし、それはある意味、正に確かな結果を得られたと。

演奏における正確さとは、意図に対しての正確さという面があって、その意図を理解していなければ、それは人間にとっては「正確」ではないということでありましょうか。

なんか違うんだよね〜、ほしいところに来てないな〜ってのは、まさにその意味でしょうか。しかし音楽というのは誰かが設定した、ダーツ的な的に当てれば良いとも限らず。主体の意図か、客の好みを汲み取った意図か。

そしてまた、この意図というものが、意識下にあるか、無意識なのか、これまた...自分はそんなこと意識していない、っていう人がいても、多くの場合は無意識になっている教養や客観性というものが下支えをしていることもあり。言葉というものは、人を縛る力もすごいけれど、実は人を充分に表していないからこそ、処理されていない破片のように人に傷をつけるのかもしれず。それを不正確な言葉とするならば、不正確な音というものも、人になにか意図しない効果を与える、そういうことかもしれない。

無意識に行う行為、潜在意識による行為を、人は偶然と呼んで良いのか。思いつくままに演奏したんだよ。これは偶然なのか、無意識による自動演奏なのか。それをアナライズして音楽的要素を理解することの意義はあっても、偶然でいいんだよ、ということが、他者と共有するメソッドになり得るのかどうか。

音楽を楽しむとき、一体何を楽しんでいるのか。個人的には、それはやっぱりメロディやハーモニーなんですが、ドラムセットの織りなすビートには音の高低差によるメロディ要素を感じるし、達人のシンバルなんかはまるでピアノのようなフレージングを感じさせてくれると思っています。

自分にとっては、音程、音色、ダイナミクス、それらな織りなすメロディ感がドラムセットから聴こえてくると、ジャンルを問わずあぁこれはステキな演奏だなと思うことが多いし、まぁもちろんドスドスやってるだけのパンキッシュな演奏も、それはまた良い演奏で。

その場面に適した、それを正確というならば、それはもうKY的なものが一番正確ということになり。本来日本人は一番得意なのかもしれず、しかしそんなに場に適した「正確な」音楽は今世の中にあるんだろうかと感じることもまた然り。そしてむしろ音よりも「意図」ばかりが透けて見えるような気がしてしまうことも多く、これは意図の質の問題なのか、それとも意図がある事自体が何か悪であるのか。

正確を言う言葉を用いると、あたかも正確であるものと、正確でないものが存在するような気もするし、意図や意志という言葉もまた、それが在ることが当然のようにもなれば、意図のないものがまるで意味のないことのようでもあり。適当がテキトーになり、良い加減がイーカゲンになるプロセスが疑問無く世の中に生じている時点で、言葉も記述から商品になり、ウケるため、売れるための言葉が氾濫していく。そうして、音楽もまた、同様のことが起きているのかなぁとか。

ここまで書いてなんですが、正確な音楽なんて言葉は無いでしょうから。
でも、正確な演奏はありますかね。

そして、良いリズムなんてものも、どこにあるんだか。
良いグルーヴ、良いドラム。良いって何?みたいな。
でも在るような気がしますね。心の中にあるんでしょうか。

あれ?心の中にあるの?なんだか結論も出てしまったのか。これで終わりにしても良い流れですが、たぶんまだリハビリ戯言は続きます。

ダラダラと 書いてはみたが まとまらず。
しかしそれもまた意図、だったり。
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