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良いリズムとはどこにあるか #009

天然と養殖っていう言い方。

山菜とか、きのことか、魚もね、旬の時期のその場所のものだとか、一本釣りだとかなんだとか。天然っていうのはなんだかありがたい気がする。実際味の差を感じることも多い。

そして養殖。美味しいものをいつでも食べたいと思うのは当然のことであろうとは思うから、増やそうというのは自然なことだろう。田んぼで稲作をすることも、言ってみれば養殖かもしれない(第一次産業界での用語の使い方は別として)。スーパーに並ぶ天然の野菜なんてものがどれだけあるのか。肥料も農薬も使っている、とされている。食品廃棄がものすごいらしいけれど、それでもまだせっせと作って、そして輸入もしている。余談だが、種苗法とかね、ああいう規制ってのはある意味そもそも自然ではないと開き直りすぎて怖いような気もするけれど。

山間の田畑はなんとなく自然の一部な感じで、広大な農地は産業感、海の生け簀とか、釣り堀みたいなものの人工感ってのは、いったいどこから来るんだろうか。養殖、栽培、耕種、養豚養鶏、酪農、放牧、ブロイラー...いろんなニュアンスが付いていて、なんとなくできあがったイメージというものにも案外支配されていたり。しかし、実際、天然と養殖とか、自然物と人工物の違いなんてのは、宝石なんかもやっぱり扱いが違っていたり。養殖とは違うけど、冷凍なんてのも昔は嫌いだったけれど、今は助かるとしか言いようがないほどに進化している。では、天然は進化しているのか。いや、本当の天然というものは残っているのかなんてことも思う。

冒頭から話はまったくドラムでもリズムでもないのだが、ほとんどデスクワークやスタジオ内での仕事に没頭していた自分にとって、農業というのは憧れはあったものの縁遠いものだった。人生において交遊が増え、家族親族が増えたりしていくことで、地方の方々からいただく農作物のうまさというものには本当に驚く。自分がスーパーで安いものばかり選ぶからかもしれないが、正直、地方の人達は不便だとか言うけれど、場所や人にも寄るだろうけれど、飲み屋でちょっと出てくる安いつまみがめたくそ美味しかったり、自家栽培の野菜のうまさは、東京でうん万円使って食べたものより遥かにうまかったりと、来世は海と山のあるところで、都心に憧れながら毎日獲れ獲れの魚を頬張れる人生がいいなぁ。←個人の見解です。

整形というものがあるけれど、そりゃ〜一応ステージに立ったり人前にも出る仕事をしてきた自分としては、若い時にお金あったら整形して歯も矯正して、スキンヘッドにできないこの頭の形をなんとかしたかもしれんので、それ自体をどうこうではないけれど。それを以て「あの美人は養殖だから」とサラッと言う人に出会ったとき、あぁ、なんというか、そんな感じなの?とちょっと不可思議な気持ちになった。じゃ、天然ってなんだろう。

さて、リズムの話。リズムマシンっていうのは、なんだろう。天然なのかな。アナログの電子ドラムとか、天然感あるなと思うけど、モデリング系はあまり浸透せず、PCM+アルファなものが主流に感じられる今、そっちは養殖というか合成というか、なんというべきか。LINN9000とか、Simmons SDS-Vとかは、味や鯖の刺身感がある。いや、こはだとかかな。鯛や鮪、サーモンのような味イケメンというより、鯔背というか、渋めというか。

何かが足りないまま、その良さだけは出まくっている感じというのだろうか。それに対して、バランスを取ろうとしてしまっているものは、それがとても高いレベルになればもちろん超最高なのだが、なんというかやはり整えてしまったという加工感があるのかもしれない。厳密に言ったらなんでも加工してんだけどねw

メソッドと呼ばれるものがあって。いわゆるお勉強ってことなんでしょうけれど。昨今、YouTubeなんかで、素晴らしいドラミングをTranscribeしたものがよく出てくる。昔だったらコピー本として流通したであろうものを遥かに凌駕した、超絶難解ドラミングを見事に譜面化したりしている。動画とDAWを駆使して出来ていることでもあろうけれど、自分も専門誌で記事を書いていたことを思い出せば、その採譜の力量には舌を巻くほどではある。いやもちろん日本でもそういう人いるんだけど、あまり共有ソースとして出てこないと言うか。欧米は個性が強い、日本は勤勉で細かい、なんて言われるけれど、彼らの分析能力って半端なかったりする。あの譜面取れる人どれくらい日本のドラマーにいるだろうかとか。人種間の能力差というより、メソッドの裏にある分析力って意味なんですけども。それって、結局メソッドの活かし方とか、メソッドとはそもそも何であるかの理解の違いにつながったりもするのではとも。

メソッドというものを個人的に解釈すると、ドラムにおいては、なにかしらの素晴らしい演奏を実現している裏側のメカニズムやテクニックを分析して、どういう奏法やアイデアが使われ、どんな身体的な能力によってそれが実現されているかを抽出して、そしてそれを自分に置き換えて再構築する、ということが有効な使い方だろうと思っている。

同じことをできるようになろう、その中で必要な手順や技術を実践しようという本家取りみたいなものももちろんだけれど、その先を考えて自分の応用まで視野に入れることで、メソッドというものは、草加せんべいの大量生産というよりも、より良い能力の土壌となるべきと思っている。これが本来の意味かは知らない。ま、そもそもカンの良い人は、メソッドだとか言わずとも、音楽を聞いただけで演奏に繋げられる、そんな人もたくさんいる。練習なんかしなくても上手い人もいたりするのだ。無論、練習に意味がないということでは無い。

誰かの真似をすると、個性が無くなるのか、いやそんなことで消える個性は個性じゃない、とか、いろんな言い方がされてきたように思う。個性を伸ばすレッスンというのは、養殖を天然と見せることなのか、天然を養殖のような扱いやすさと流通のしやすさに整えることなのか...。

メソッドを学んだ者は、そのメソッドによる養殖になってしまうのか。しかしアメリカのドラマーがルーディメンツを基礎として習得しながらも、誰一人として似てはいない。ストロークセオリーにしても然り。たとえばご本家マーチングであれば、フォーメーションの美しさという意味で、メンバーの動作をビシッと揃えるが、それは意味合いが違う。ドラマーは揃った方が良いのか、良くないのか。

メソッドが一人歩きすると、おかしな展開になりうる。メソッドによる養殖、大海を知らずとでもいうのか。音楽よりメソッドが先に来てしまうことは、習得段階においては誰でもあり得るけれど、固着してしまうと、音楽に戻れなくなるのかもしれないと思うことはある。実際の現場というのは時間との戦いであることも多く、紙を切るのにハサミとナイフと、どちらを使うのが正しいのかを迷っている間に、誰かが折り筋を付けて手でさいて終了、なんてのは日常茶飯事ではあるまいか。だからといってその考察が無駄とは思えないし、メソッドというものもまた人間の産物であり、芸術とも思えるメソッドもあると個人的には思っているので、そこに人間が注力してしまうのもまた、基礎科学研究的な愉しいことではあると思っている。

人々は、本当に良いリズムを求めているのだろうか。と思うときがある。

求められなくなったら、それは世の中から消えるのだろうか。そうして、どこにあるのか、どこにあったのか、そんなことも誰も思わなくなるのだろうか。そしてすでに、そんなものはもう求められてもいないのでは、とも思う。

個々の記憶は消えても、生きる仕組みとしてはDNAに刻まれていくとしたら、音楽が発生したのは、生命力と種の保存のために、人間が環境を整え、食べるものを確保して備蓄していったのと同じようなことであろうか。とすれば、音楽や文化は、生きるための肥料であり、文化によって我々の心は養殖されたということなのか。

毒のある部分はともかくとして、不味い部分を捨てて、美味しい部分を切り出して食べるというのは、動物でもやっていると思う。それは、命にとって必要なものを美味しいと感じさせるという、脳が仕組んだ行動とも言えよう。それは栄養学という意味の方が大きいのかもしれないが、美味しいところだけを抽出した、言うなれば精米された音楽というものと、玄米のような音楽に例えてみれば、実際そういうものはたくさんあると合点はある。

また、今や、在る種の音楽や芸能を見ていると、化学調味料や味覚刺激系やドラッグと感じることがある。滋養というものとは別の、嗜好品の世界でもあろう。自分も毎日のように珈琲を飲む。これは無くても生きていけるが、豆の鮮度がどうだ、粉のインスタントよりドリップがどうだと感じてしまうので、それが悪いとかそんなつもりは無いが、一方で、あぁこれこそ本来の滋養というものだなと感じることがあるのも事実だ。

美味しいものを食べて育つ心もあるが、自惚れたり好き嫌いが激しくなることもあるだろう。不味いものを食べて感謝に気がつくこともある。すべては作用反作用、しかしそれはいきあたりばったりではなかろうか。うまくいく方法、みたいなマニュアル本が並び、ライフハックの動画が溢れ、しかし予定調和はお好みではなく、ちょっとはドキドキがほしいみたいな。人間の感情はかくも豊穣となり、エントロピーは増大し、時間の見え方も無限に広がり、それでも共感や称賛を求めて、人々は望んで閉じこもったねじれた空間の中で、誰にも邪魔されず、あとは脳内の捏造で幸せを感じようとしている、のかもしれない。

その、各々の住む小さな小部屋空間のひとつひとつに、良いリズムというものが存在しているのか、それもまた興味があるけれど、大きな意思と言われてきた「何か」の存在もまた、もはや現代人には不要なツールとなっているのか。しかし信仰心を科学が支え切るにはまだ不足も多いように思われ、科学というものも、まだまだ断片ばかりがその時代に求められる衝動の証明のように利用されているようでもあり、犯罪者を養護する弁護士が好材料として使っているだけなのかもしれぬ。なにより、現実というものは常に広がっていて、科学の解明は常に事象の後であって、予測というものができるのはいつなのだろうとも思う。

さて、何が言いたいかと言うと、僕らは養殖した動植物を食べて、自ら養殖になろうとしているのかもしれず、これは実は在る種の進化に向かうものなのかなぁと。

芸術とは、個人の体験や感情による、ある意味偶然の産物だったのか。それとも大いなる時代を受信して生み出されたものなのか。芸術はもはや養殖された商品となり、平和な社会で各々の小部屋に配分され、しかしそろそろ天然の味は消え失せてしまい、大いなる天然を求めて、社会はまた波乱の時期に向かうのかもしれないなぁと思ってみたり。

小競り合いくらいが、世の中ちょうどよいよなぁと思う今日この頃。

「良いリズムとはどこにあるのか」という、自分的には文法的にNGなタイトルを設定して書いてきましたが、次は最終回の締めくくりの予定。いやそんなん誰も連載とか思ってないでしょうけど。この言い回しにしたのは、これが本当にそこを追求するためのものではない、ということでもありますが、思いの外いろいろと練り込むリハビリになったようでもあり、天然な文章というものがあるとすれば、それはやはり山の中を彷徨わないと見つけられないキノコのようなものかもしれないし、そんなつもりじゃないのに見つけてしまうことがあるとすれば、それこそ天然かもしれず。

お読みいただきありがとうございます。
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