2020年3月11日&2021年3月11日 | 宮城県産ドラマー、石川洋のブログ。

宮城県産ドラマー、石川洋のブログ。

宮城出身、都内中心、全国で活動中のドラマー、石川洋のブログです。ライブサポート、レコーディング、ドラムレッスン等行っています。

また恐ろしくブログが空きました…

 

今年は去年同様、きっと時間は普段よりあるはずなので、できるだけブログ書くようにしてみようかな!と今思いました。

 

どうなるかは分かりません(笑)

 

 

 

さて、毎年3月11日に関してブログを更新し続けてきましたが、去年は更新しませんでした。

 

 

何故かというと、去年の3月11日は緊急事態宣言こそまだ出ていませんでしたが、なんともコロナ問題が微妙な時期でして。

 

東京やそうでない地域での意識の差も今よりかなりありましたし、今よりも更に未知のウィルスだったので、どうしようかかなり悩んだのです。

 

 

で、結局去年は帰ったのですが、家族とも一緒にご飯を食べたりもせず、必要最低限な人としか会わず、家でもマスクを外さず、南三陸へは行きましたが、親戚には会わず一人でお墓参りだけしてきたのです。

 

しかも本当にそそくさとお墓参りだけしたので写真も撮っておらず、ブログに書くのも時期的にも微妙だったので、書かずにいたという感じでした。

 

 

 

今年もほぼ同じような感じでしたが、甥っ子の引っ越しの手伝いもあったので、自分ができる万全の態勢で宮城に帰りました。

 

 

今回は一人で行くことにしたので、10日の夜に東京出発して、夜中に実家に到着して寝て、起きて両親と南三陸へ。

 

 

いつも3月11日ってあんまり天気が良かった記憶がないんだけど、今年は晴れて海も穏やかでした。

 

 

 

 

また去年とは違った新しい道路ができていたりしました。

 

三陸道も全線開通したようだし、主要な国道とかはこれで大体できたのかな?

 

とは言え、母の実家に行くだけでも以前使っていた道路が使えなかったりするので、生活用の道路なんかは現地の人には相変わらず不便なんだろうなと思います。

 

 

今回一番びっくりしたのが、母の実家のすぐ下に港があるのですが、その港の入り口近辺に高い防波堤ができていて、入り口には開閉できる門が付いていたことです。

 

高さは6mくらいかな?

 

 

もちろん安全の為には仕方ないのですが、以前はこういう物は全くなかったので、道路から海が見えていた所でも壁しか見えなくなっており、寂しく感じました。

 

 

母の実家に到着し、仏壇に手を合わせ、叔父叔母と話。

 

 

ちょうど亡くなった従姉の娘が来ていたので会うことができました。

 

 

10年前、自分は29歳で今は39歳だからまあそんなに変わった感じはしないのですが、従姉の子供たちは10年前は子供だったのが大人になっていて、10年という月日はやはり大きいなと。

 

 

漁師だった叔父は、震災後に修理された港が高さをかさ上げして作りすぎたせいで、水面までの高さがかなりあるということで船への乗り降りが年齢的にかなり厳しいのでもう船には乗っていないとのことでした。

 

ちょうど話をしていた時に近所の漁師仲間の方がサクラマスが捕れたということでおすそ分けに来ました。

 

うちの両親にも「持ってくか?」ということで一匹分けて頂き、叔父がその場であっという間に切り身にしてくれました。

 

 

 

こういう繋がりってやっぱりいいよなぁと思いました。

 

 

11日は色んな方々が線香を上げに来るだろうし邪魔になっても悪いので、早めに切り上げ、帰りは小腹も空いたのでさんさん商店街へ。

 

 

全然知らなかったのですが、商店街の端から川の上に橋がかかり、防災庁舎の跡地を囲むように震災復興祈念公園が出来ていました。

 

 

 

 

橋が出来たことで、商店街に寄った方が徒歩で防災庁舎跡や公園まで行けるようになりました。

 

 

庁舎跡も久しぶりに目の前まで行きましたが、やはりこの建物の屋上まで津波が来たんだという現実を感じ、当時屋上に避難していた方々や付近の住民の方々の気持ちを考えるとなんとも言えない気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、今年も3月11日に宮城に帰れたことで、この日は10年間連続で宮城で過ごすことができました。

 

10年と言えば、「そうなのか」と思う部分もありますが、実際には一日、一分一秒の積み重ねだと思います。

 

10年経ったから何が変わる訳でもなく、また同じように時間を積み重ねて生活していくということだけだと思います。

 

 

 

家が流された人、家族が亡くなった人、天涯孤独になってしまった人、そういった震災で起きたことが原因で心が病んでしまった人、病んでしまった家族を見守り続ける人、見守りたいけど高齢になってきてそれも難しい人。

 

 

最近ネットニュース等で被災地の方々の10年をインタビューするような記事をいくつも読みました。

 

それらに大体共通して感じたのは、震災自体で発生した直接的な損害よりも、年月が経過してそこから枝分かれした要因(家族が亡くなってその後の家族関係や親戚関係が悪化したり、両親が亡くなって様々な所をたらい回しにされて苦しんだり、転居せざるを得なくなり新しい人間関係を築けずに心を病んだり、それに伴ういじめで苦しんだり等)で苦しんでいる方々が多いと感じました。

 

 

人の数だけ人生があるように、そういった問題も様々なケースがある訳で、解決方法やサポートする方法というのも多岐に渡ると思います。

 

行政や国というのは縦割りで出来ているので、「ケースバイケース」の対応というのがどうしても上手くできないことが多いと思うのですが、なんとか苦しむ方々に寄り添いながら、今後も物的支援や援助(カウンセリングや各種相談、相談しやすい環境作りなど)を実行していって欲しいなと思います。

 

 

 

10年という節目ということもあってか、「震災を忘れない」という様な言葉を今年は多く見ました。

 

震災があったこと自体は誰も恐らく忘れないとは思うのですが、やはりあの時感じた気持ちや、考えたこと等は薄れたりする部分もあるのかなと思います。

 

そういった意味で、このブログが少しでも何かを感じたり思い出したりするきっかけになればと思いますし、これからも仕事が入らなければ3月11日は宮城で過ごしたいと思っています。

 

自分も遡って読むとまた感じることもあると思うので、後で読み返そうと思います。

 

 

 

昨日ちょうど9歳の男の子のリモートレッスンをしている時に大きめの地震がありました。

 

その子のお父さんはもちろん震災は知っていますが、その子は当然生まれていないので実感はないわけで。

 

でももしかしたら、先生の実家がとか、先生の親戚がという話をしたら、身近に感じるかも知れない。

 

それだけでも少しは意味があるのかなと思いました。

 

 

 

最近自分を知ってくれた方、お時間あれば過去の記事を読んでいただけると幸いです。

 

 

 

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