なんとも気の抜けた感じだけど数年ぶりに投稿してみる。
今月のカデンシア@bnpでの大一番を終えたところでちょっとだけ2023年前半の振り返り。
2月にリオに行ってきた。3年ぶり。
休みが取りにくくなってしまったので5泊7日。短期出張みたいな日程。
とりあえず計画していた数々のミッションを寝ずにこなす。
飛行機は行きも帰りも満席。
15回目のリオだけど過去にそんなことは1度もなかった。活気も人もあふれるドバイ空港、ガレオン国際線到着ロビーの喧騒。リオの通関では急遽荷物チェックを受けることになって、1時間ほど待たされる。憮然とした検査官に睨まれながらトランクを開ける。そこにあるのはリオに住む恩人たちへの土産物。イカ飯、いぶりがっこ、漫画本、頼まれものの袋麺2つとカレーのルー、キューピーマヨネーズ(大)が3本。怪訝そうに覗き込む連邦警察の担当官に「日本人は旅先でもMyojoとマヨネーズが欠かせないんだ」とポルトガル語できっちり説明。苦笑いのまま無罪放免。
ともかく2/17午後無事に丘に到着。即外出してバテリアのパレード衣装の受け取り。
この間マスクはなし。
翌日朝8時入りでレコーディングに。予定通りに2曲は録りきれず、1曲丸々残る。22日(帰国日)に残りを録ることに。詳細は下に。
19日は9月から準備をしてきたブロッコ名義でのホーダヂサンバを主催。8時起きでPraça Seteへ。テント張りこそなかったものの、飲み物やテーブルの準備に追われ暑さでフラフラ。途中、ブレンダと出演者の水、日焼け止め、シャンプー(個人用)の買い出しに。こんな時に一緒に荷物を持って歩いてくれる年になった。演奏はレコーディングに来てくれたメンバーが中心。大船に乗る気分。大きなスイングとスピード感の同居。柔らかく鋭く油断のないリズム。文化への自負。あのうねりの中でこそ息をつける気がする。
程なくしてManinho, Pedro Miranda, Bruno Barretoが応援に来てくれた。ArrudaのPopoやFabãoも登場。みんなもうすぐ20年の付き合いになる人ばかり。いまや友人というより同志に近い。
20日Vilaのパレード当日。朝から衣装の試着や調整を済ませ午後はウチで過ごすことに。Tia Normaと話が止まらない。20時サプカイへ向け出発。21時correio 側集合でVilaの本番に参加。ひっきりなしの呼び出しと冷えたビールの乾杯。バテリアの若返りは著しいが、まだまだ中堅(入会から18年目)として頑張れることもわかってよかった。その音は2005年に育ててもらった時のまま。ここで育つことができてよかった。
深夜3時に帰宅。衣装を着たまま帰宅した僕を笑って出迎えてくれたTia Normaと朝6時まで乾杯&テレビ観戦。「モシダーヂはほんとにだめだねぇって、あの人はパレードを観る度に言ってたわね」と笑いながら、作りおきのSopa de ervilhaを出してくれる。胃にも心にも沁みた。
たったひとりのリオ旅は一体何年ぶりなのか。この数年は同行者のケアで忙殺されてすっかり忘れていたが、こういう時間と会話が自分にとって何より心地よく大切だったことを思い出す。ここでリオに帰省したことをようやく実感。
翌21日は9時起き。ベーストラックの粗ミックスを繰り返し聴きながら修正箇所の洗い出し作業。Jonattへメッセージで送りエンジニアに伝えてもらう。午後から近所のスーパーへお土産の買い出し。干してあった衣装をたたみ早くも帰国準備開始。夜Jonattの誘いでJacarepaguá のBar do Zecaへ。店内は満員。友人のFornalinhaと再会。このタイミングで注文しておいたパンデイロ2つが届く。イメージ通り最高の出来で感激。
最終日22日は8時起き。HigienópolisのWMスタジオへ。レコーディングの続き。dia da cinzaはapuraçãoがあるので15時までに録り切る。急いで帰宅しTiaの誕生日を祝いに駆けつけていた家族とテレビにかじりつく。
3年前にはもう少し時間があったリオの演奏仲間は、すっかり売れっ子で忙しくなっていたり、いつの間にかお父さんになってたり、以前とは違う大切な人と暮らしていたり。いつもと同じようにゲラゲラ、ヤイヤイと迎えてくれるけど、ちゃんと時間は流れていたのだと認識。姪のブレンダは見違えるように大きくなった。Tio Mashuと後ろにくっついてくるけど、ちょっとハニカミ屋でかわいい。思春期ど真ん中。ほんとにいい子。
そしてなにより丘のみんなが元気だった。相変わらず朝6時には道路掃除を始めて、露天でビールを売り、車を洗い、ガスボンベを運び、スーパーのレジを打って暮らしている。遠目でも僕を見つけて手を振ってくれたり、物騒な長物をぶらぶら背負ったままバイクで会いに来てくれたり、忙しい調理場から出てきて小麦粉だらけのままハグしてくれたり、暑いだろうと売り物の水を持たせてくれたり。ただいま、やっと帰って来れたよ、みんな元気?ってそんな感じで。どっちを向いても涙が止まらなかった。
5泊などあっという間で、時差ぼけになる前、23日未明に空港へ。また必ず戻るからとtiaと約束して帰国。
以下、少し詳細に。備忘録として。
レコーディング初日。
朝8時にHigenopolisという地区のスタジオに入る。チームの10周年記念のサンバとmestreが遺した未発表曲の録音。15年の来日時にとったインタビューの中で歌ったほんの一節がとても美しく、曲のタイトルまでは聞いていたものの、mestreが帰天したことで、これをなんとか失われないようにしようと思い立ち、共作者のGodôに全編のメロディをボイスメモで送ってもらっていた。ところが。なんと翌年にそのGodôも亡くなって、いよいよこれは記録に残しておかなくてはと考えた。まずはこのサンバを私費で買い取る形で後世に残すことに決めた。歌はBruno Barreto。パーカッションはJonatt、Maninho、そして自分。Maninhoのタンボリンとへピーキ ヂ アネウ、ヘピニキはどうしても入れたかった。弦はこれまた絶対のDaniloとMarquinhos。帰国後、カデンシアの和田くんに頼み、トロンボーンを入れてもらいベースの録音はほぼ完成。
後は目(ホンちゃんの歌)を入れるだけ。
どうしてもメストリの家族とごく親しい身内だけで録りたかった1曲が間も無く出来上がる。
ブロッコのサンバとともに10周年記念のCDに収録する予定。
今月のカデンシア@bnpでの大一番を終えたところでちょっとだけ2023年前半の振り返り。
2月にリオに行ってきた。3年ぶり。
休みが取りにくくなってしまったので5泊7日。短期出張みたいな日程。
とりあえず計画していた数々のミッションを寝ずにこなす。
飛行機は行きも帰りも満席。
15回目のリオだけど過去にそんなことは1度もなかった。活気も人もあふれるドバイ空港、ガレオン国際線到着ロビーの喧騒。リオの通関では急遽荷物チェックを受けることになって、1時間ほど待たされる。憮然とした検査官に睨まれながらトランクを開ける。そこにあるのはリオに住む恩人たちへの土産物。イカ飯、いぶりがっこ、漫画本、頼まれものの袋麺2つとカレーのルー、キューピーマヨネーズ(大)が3本。怪訝そうに覗き込む連邦警察の担当官に「日本人は旅先でもMyojoとマヨネーズが欠かせないんだ」とポルトガル語できっちり説明。苦笑いのまま無罪放免。
ともかく2/17午後無事に丘に到着。即外出してバテリアのパレード衣装の受け取り。
この間マスクはなし。
翌日朝8時入りでレコーディングに。予定通りに2曲は録りきれず、1曲丸々残る。22日(帰国日)に残りを録ることに。詳細は下に。
19日は9月から準備をしてきたブロッコ名義でのホーダヂサンバを主催。8時起きでPraça Seteへ。テント張りこそなかったものの、飲み物やテーブルの準備に追われ暑さでフラフラ。途中、ブレンダと出演者の水、日焼け止め、シャンプー(個人用)の買い出しに。こんな時に一緒に荷物を持って歩いてくれる年になった。演奏はレコーディングに来てくれたメンバーが中心。大船に乗る気分。大きなスイングとスピード感の同居。柔らかく鋭く油断のないリズム。文化への自負。あのうねりの中でこそ息をつける気がする。
程なくしてManinho, Pedro Miranda, Bruno Barretoが応援に来てくれた。ArrudaのPopoやFabãoも登場。みんなもうすぐ20年の付き合いになる人ばかり。いまや友人というより同志に近い。
20日Vilaのパレード当日。朝から衣装の試着や調整を済ませ午後はウチで過ごすことに。Tia Normaと話が止まらない。20時サプカイへ向け出発。21時correio 側集合でVilaの本番に参加。ひっきりなしの呼び出しと冷えたビールの乾杯。バテリアの若返りは著しいが、まだまだ中堅(入会から18年目)として頑張れることもわかってよかった。その音は2005年に育ててもらった時のまま。ここで育つことができてよかった。
深夜3時に帰宅。衣装を着たまま帰宅した僕を笑って出迎えてくれたTia Normaと朝6時まで乾杯&テレビ観戦。「モシダーヂはほんとにだめだねぇって、あの人はパレードを観る度に言ってたわね」と笑いながら、作りおきのSopa de ervilhaを出してくれる。胃にも心にも沁みた。
たったひとりのリオ旅は一体何年ぶりなのか。この数年は同行者のケアで忙殺されてすっかり忘れていたが、こういう時間と会話が自分にとって何より心地よく大切だったことを思い出す。ここでリオに帰省したことをようやく実感。
翌21日は9時起き。ベーストラックの粗ミックスを繰り返し聴きながら修正箇所の洗い出し作業。Jonattへメッセージで送りエンジニアに伝えてもらう。午後から近所のスーパーへお土産の買い出し。干してあった衣装をたたみ早くも帰国準備開始。夜Jonattの誘いでJacarepaguá のBar do Zecaへ。店内は満員。友人のFornalinhaと再会。このタイミングで注文しておいたパンデイロ2つが届く。イメージ通り最高の出来で感激。
最終日22日は8時起き。HigienópolisのWMスタジオへ。レコーディングの続き。dia da cinzaはapuraçãoがあるので15時までに録り切る。急いで帰宅しTiaの誕生日を祝いに駆けつけていた家族とテレビにかじりつく。
3年前にはもう少し時間があったリオの演奏仲間は、すっかり売れっ子で忙しくなっていたり、いつの間にかお父さんになってたり、以前とは違う大切な人と暮らしていたり。いつもと同じようにゲラゲラ、ヤイヤイと迎えてくれるけど、ちゃんと時間は流れていたのだと認識。姪のブレンダは見違えるように大きくなった。Tio Mashuと後ろにくっついてくるけど、ちょっとハニカミ屋でかわいい。思春期ど真ん中。ほんとにいい子。
そしてなにより丘のみんなが元気だった。相変わらず朝6時には道路掃除を始めて、露天でビールを売り、車を洗い、ガスボンベを運び、スーパーのレジを打って暮らしている。遠目でも僕を見つけて手を振ってくれたり、物騒な長物をぶらぶら背負ったままバイクで会いに来てくれたり、忙しい調理場から出てきて小麦粉だらけのままハグしてくれたり、暑いだろうと売り物の水を持たせてくれたり。ただいま、やっと帰って来れたよ、みんな元気?ってそんな感じで。どっちを向いても涙が止まらなかった。
5泊などあっという間で、時差ぼけになる前、23日未明に空港へ。また必ず戻るからとtiaと約束して帰国。
以下、少し詳細に。備忘録として。
レコーディング初日。
朝8時にHigenopolisという地区のスタジオに入る。チームの10周年記念のサンバとmestreが遺した未発表曲の録音。15年の来日時にとったインタビューの中で歌ったほんの一節がとても美しく、曲のタイトルまでは聞いていたものの、mestreが帰天したことで、これをなんとか失われないようにしようと思い立ち、共作者のGodôに全編のメロディをボイスメモで送ってもらっていた。ところが。なんと翌年にそのGodôも亡くなって、いよいよこれは記録に残しておかなくてはと考えた。まずはこのサンバを私費で買い取る形で後世に残すことに決めた。歌はBruno Barreto。パーカッションはJonatt、Maninho、そして自分。Maninhoのタンボリンとへピーキ ヂ アネウ、ヘピニキはどうしても入れたかった。弦はこれまた絶対のDaniloとMarquinhos。帰国後、カデンシアの和田くんに頼み、トロンボーンを入れてもらいベースの録音はほぼ完成。
後は目(ホンちゃんの歌)を入れるだけ。
どうしてもメストリの家族とごく親しい身内だけで録りたかった1曲が間も無く出来上がる。
ブロッコのサンバとともに10周年記念のCDに収録する予定。